いやはや、昨日の女子柔道はよかったです。
直ぐ前に、ブログでオリンピックの嫌事をつらつらと書き連ねたあとの
この変貌を、「おばばの世迷言」とお笑いくだされ・・と、開き直りたい
ほどの気持ちの良い勝ち方でしたね。

まず、あの松本薫嬢の、闘志満々のあの険呑で獰猛な眼つきと、一人
己の内なるものに、遠吠えしているようなひとりごち。


あれですよ。あれが闘う者の「闘志」ですよ。
中にはしらーっとしているのを平常心などと、訳知り顔で説明する愚かな
解説者もおりますが、柔道は格闘技です。
しかも、日本古来の柔術を基に、嘉納治五郎さんが統合して「道」なるべく
高みにまで創りあげたものです。

昔、これらをテーマに何本の映画やテレビドラマがあったでしょうか・・
もちろん、それの受け売りではありますが、どんな過程でそれが道に高まったかは
誰でもが判るようになりました。あの時のヒロイン、佐治多恵子さんは、今は
どうしていらっしゃるか・・・。


あの野生味一杯の鋭い視線に、私は釘付けになり、真夜中をものともせず、
一人、決勝戦に見入っていました。
相手方の反則行為で勝敗は決まりましたが、誰が見ても松本嬢の優勢は明白。
とても気持ちのいい勝ち方でした。

正直、今までの柔道の選手たちの中で、彼女ほど前に、前にと出て行く人は
一人もありませんでした。
解説者も「あせってはいけません。」などと悠長なことを言っておりましたが、
5分の間に白黒つけなければならないのです。
そんな、ゆっくり構えていられますか?
しかも、受身に入ってしまえば「指導」が飛んでくるんですよ。
先手必勝、前に前には、私のような門外漢でも、そうでなければ・・と
思います。

それで、もしも負けてもその方が悔いのない思いで終われると思うのです。


前日の男子の判定が覆って、後味の悪い勝ち方を見ていただけに、この
勝利の快感は格別のものがありました。


そんなこんなの昨日、出社途中で家人の母上から電話。
携帯にかかるのですが、車の中ではナビに連動させていますので、向こうの
声は車中に響きます。

 母 「私、私よっ。」
 家 「わかっとるよ。なんね?(母上からだと自然に佐賀弁になるようです。)」
 母 「昨日ね、K子さん(母上の実妹。大阪に住んでいます。)と、話よったら
    Tちゃん(家人のことです)から、桃が届いてそれが美味しかったんやて。」
 家 「うん。それで?」



 瀬戸内に住む我が家の周辺は、お魚はもちろんですが、農産物にも恵まれ、果物は
 たいていのものが美味しいです。
 特に、桃は岡山県の白桃に劣らぬ美味しさの「香味技(かみわざ)」という名前は
 冗談みたいな桃があります。

 ただ、桃はその年によって、出来・不出来が大きく作用しますので、自分たちで
 食べてみて、送るかどうかを決めています。

 今年はとても甘く瑞々しく、これならとK子さんに送ったものです。
 K子さんは、幼い頃母と暮らせなかった家人にとって、母代わりでもあった人で
 今でも、頭が上がらないようです。(笑)
 近くにお孫ちゃんもおりますので、桃の当たり年には送っています。


 さて、会話に戻ります・・・


 母「お母さんね、毎日毎日、暑いんよ。」
 家「そうやね。今はみんな暑いよ。」
 母「もう、なぁんも食べられんとよ。このままやと、お母さん死ぬわ。」

 と、元気な声で訴えます。隣で聞いていた私は思わず吹き出してしまいました。

 家「だったら、クーラーつけて家から出られんよ。ずっと家におり。」
 母「いや、食べれんとよ。水分とらないけんから、お母さんに桃送って。」

 家「へ?・・・水分とるのに桃ね??」
 母「そう。もう桃で水分ば取らねば、お母さん死ぬるかもしれん。」


 家「あ、そ・」
 母「だけん、お母さん果物で水分とらねば、もう死ぬかもしれんとよ。」

 家「わかった。わかったけん。送るばい。桃でよかと?」
 母「うんうん。それでよかとよ。待っとるけんね。」

 この会話、聞きようによってはかなり深刻に思えるかもしれませんが、母上の
 声はいつもどおりの張りと切れのあるソプラノで、まだまだ水分は十分と
 思わせる潤いがありました(笑)

 家人は、呆れたというそぶりで頭を振ってはおりましたが、死ぬ、死ぬと
 母親に連呼されては、ほっとくことはできないでしょう。(笑)


その日のうちに、桃の販売所に向かって、送りました。

母上は一人暮らしですから、箱詰めの桃はとても一人で消化することは出来ないと
思った家人は電話で、そのことも伝えてはいたのです。

そして今朝・・・

またもや家人の携帯が鳴りました。

 家「うん。ついたと。え?もう食べたんね。一時間くらいは冷やさんと美味しゅうな
   かよ。」
 母「いや。美味しかよ。ほんまに美味しか。」
 家「それならいいけど。沢山あるから、友達にも分けんといかんよ。」
 母「いや。これは私の水分補給やから、これくらい食べるけん。ありがとう。
   ありがとうね。あんた、ほんまに良い子やねぇ。。」

 これには家人も苦笑い。私も思わず吹き出してしまいました。

家人いわく
「良い子やねぇなんて、生まれて初めて言われた。オレは桃送って良い子って・・
 どんだけ悪い子だと思われ取ったんやろか・・」と・・・・

私は何か返そうかと思いつつ、「良い子やねぇ・・」が思いのほか、笑いの
ツボに嵌って、なかなか抜けられません。(笑)

 でも、「しっかし、オレって一生、我儘な女に尽くすようにできてるんやなぁ。」
としみじみ家人が呟いたときには、母上のと二人分のパンチをお見舞いしたのは
言うまでもありません。
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by sala729 | 2012-07-31 15:57 | Comments(2)

いやぁ、またまた巡ってきましたね。オリンピック。
こう長く生きていると、四年に一度が早いのなんのって・・(笑)

ちょっと前に、ここ(ブログ)で、私がテレビで見た途端、女子柔道の
塚原真希さんがコロリ。それからと言うもの、私が見ていれば「負ける」が
続きました。
それ以来、周りからオリンピック観戦を停められていたのが四年も前のこと
だったとは・・・

あまりの月日の流れの速さに、恐れ戦くばかりです。

しかも、そんなに身近に感じた四年前のことなのに、すっかり忘れたふりして
(これはホントです。決して忘れてはいませんが、フリするのは上手です。
なにしろ、私は忘れられない女ですから・・)夜な夜な、オリンピック
をライブで見ております(笑)


まだ始まったばかりで、柔道の軽量級や水泳などが主な鑑賞種目ですが、この
解説を聞いて、私の「へそ曲りの虫」は、またうずうずと動き出しました。
悲壮な面構えで、試合に挑む選手さんには「古武士」のような風格さえ漂い
なんの異論もないのですが、解説によれば、たいていの対戦相手とはもう何回も
立ち会っているのだとか・・。

特に、一流選手であればあるほど、国際試合も多く、相手が出てくるたびに
「この選手とも何度か対戦しているので・・」解説者の注釈が付きます。

・・・ん。。まてよ。

ここで、私のへそに火が点ったのです。


そういえば、毎年「世界選手権」があり、国際親善試合に交流試合。世界を
何ブロックかに分けての「世界大会」・・・・
で、その上で四年に一度のオリンピック・・・なんているの???

比較してどちらに失礼かは、判りませんが、これって大相撲で「横綱と大関は
過去何回対戦して、何勝何敗ですね。」と、解説者が言っているのと同じでは?
と、私は思うのですが・・・。

四年に一度の雌雄を決するから力が思い切り入るのであって、このあとすぐに
世界選手権があってなにがあって、しかも何回も対戦しているから、相手のことは
ビデオで研究し尽くして・・・なんて、これってほんとのアマチュアスポーツの
世界の話なの??

なんだか、高校野球のみせかけの「純真」と、同じではないかと言う気がして
きたのです。

もちろん、高校野球児のすべてが「贋純真」と言ってるわけではありませんよ。
でも、少なくとも、そういう衣を纏って、平気で授業日に地区予選を行ったり
遠隔地の学校に、野球のためだけに、高校生が高校を選んだり、訳の判らない
連帯責任取らされたりしているのは事実と、私は受け止めています。




で、オリンピックの話に戻りますが、そういえば、始まる前にテレビで、
室伏選手の雨用のシューズを開発しているという番組を見たことがあります。

もともと、あまり興味がないので、しっかり見ていたわけではありませんが、
前に、マラソンの誰々のための靴を開発したとかいうのも聞いたことがあります。

それって、職人の技術や性能ということから見れば、とてもすばらしいことなの
でしょうけれど、ではそういう援助を受けられない、開発途上国や貧しい国や
そういうことに冷淡に国の選手たちは、明らかに性能の劣るシューズやウェアで
同じように戦うってことですよね?

それで勝って、わが日本の国の勇者たちは嬉しいのかしら?と、私などは思うのです。
先年も、水着の品質でなんとかこんな問題もありましたが、私の凡庸な頭で
考えると、同じ場所で、同じ条件で、同じ環境で競い合ってこそ、真の勝負であり
そこで勝って初めて「真の勝利者」と称えられると言うのは・・・間違っています??

日本の技術者さんたちも、そんなにすばらしいシューズやウェアを開発したのなら、
自国の選手だけなんて、小さなこと言わないで、みなさんに使っていただければ
どうでしょう?
・・・選手がいやだといえば別ですが・・・


みんながそれぞれに自分の合った、雨用のシューズを履いて、試合に挑んで、
そこで、金メダルを高々と掲げた室伏さんを見たいと願う私は、やっぱり
へそ曲りおばばでしょうか?


そして、さらに、四年に一度しかないからこそ、その時のためだけに焦点を
絞って、ひたすらに自分を追い詰めるアスリートさんたちこそ、みんなで
バックアップして応援したいと思いませんか?

勝負は一期一会。勝つか負けるかです。
だからこそ、美しいし、力も入ります。ここが終わって、半年もすれば世界
選手権って、あなた、相撲の巡業じゃあるまいし・・。


でも、力を出し切った選手のみなさんは美しいですよ。
史上初の三連覇に破れたとはいえ、北島さんの姿は誰よりも美しく神々しくさえ
見えました。
アーチェリーの三人娘の笑顔は、どんなアイドルよりも可愛らしくチャーミング
でした。


それでも、日本の片隅で、ちよっと過激なおばばは、こうして斜めに、
オリンピックを鑑賞しながら、自分が日本人であることを、確認するのです。
わが日本の代表が、どんなことに関しても、誰一人も後ろ指を指されることなく
正々堂々の勝者であるために、お金と文化と知識にあかせた環境をどう受け
入れるのか、それとも私のような感覚を、一笑に伏すのか・・・
(そりゃあ、歯牙にもかけない・・かもしれませんけどね。笑)
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by sala729 | 2012-07-30 15:13 | Comments(0)

我が家のお隣は、現在改築中の真っ盛りで、現場の人たちが出入りしていますが
この陽気です。いくら網状とはいえ、すっぽり建物を覆った中での作業はさぞやと
こんな冷酷無比の私でも、お気の毒に感じています。

でも、冷酷の虫は何かあると、うずうずと蠢くもので(笑)現場の皆様には全く
関係のないことで、ましてや施主である、お隣さんにも何の罪科がある話でも
ないのですが、一言・・・感じまして・・へっへへ


ここは、今、流行の(・・か、どうかは本当はよく知らないのですが)「新築
そっくりさん」と、コマーシャルしている、やり方なのだそうです。
詳しいことは知りませんが、要するに、リフォームなんだけど、新築そっくりに
見える・・ということなんでしょ?

テレビでもよくやっていますよね。匠のなんたら・・・みたいな妙に感動的を
押し付けるナレーションの番組。
へーっとか、いいね~なんてたまに見ては、私も感心していますけれど、この
新築そっくりさん・・・なんだかネーミングにしっくりこないところにもって
きて、外にでかでかと「新築そっくりさん」OO邸って、大書してるんです。


そもそも、新築そっくりに見えるというのが「売り」なら、でかでかとそういう
表示を外に向かってするってことは、コンセプトから外れていませんか?と、
私などは思うのです。

お隣さんは、堅実で誠実な方ですから、私のようには思わないかもしれませんが
そっくりに見えるのなら、周りにはそう見せておいたらいいんじゃないですか?


新築に見えるように、リフォームしましょうと言うのなら、黙っていれば新築に
見えるということなんでしょう?
わざわざ、「新築に見えますけど、ほんとは違うんですよ。」みたいな表看板を
掲げることはないんじゃないでしょうか?

工事看板には、××建設とか、@@工務店とかだけでいいんじゃないですか?



この私の感覚を見栄と言うなら、「新築そっくりさん」なんてネーミング
そのものが見栄だと、私は思っています。
きちんとした一流の建設会社が、そんな見栄っぱりなネーミング付けなくても
いいんじゃない?と、思うのは、やっぱり余計なお世話でしょうか?


サラリーマンが、家を建てるというのは、本当に一代の大仕事です。
親からの、土地や建物を譲り受けたり、遺産で貰ったりしたのならともかく
自力で、子育てしながらローンを支払い続け、やっと先が見えたり、終わったり
したと思ったら、その手直しの時期を迎える。・・・なんだか、車輪の中で
走り続けるラットみたいな気さえします。

それでも地道に、走り続ける勤勉な私達世代(・・・私自身は働き者とは自負して
おりますが、決して勤勉などと思いあがってはおりません。はい。)は、
子供や、自分たちの将来のために、日本経済に微力な奉仕を続けてきたのです。

その、私達の心の隙間を、狙い撃ちするようなネーミングと、裏返した現実的な
営業活動は、施主の心を傷つけやしまいかと、私は思ってしまうのです。



・・・ないと思うね。そんなこと思うの、キミだけよ。

家人はそう言います。

そして、もしかしたらそんなことは気にも留めなかったのに、キミがそう言うから
却って気になり始めたってこともあるかもよ。
ま、そういうことはよくあるしね。と、嘯きます。


私は秘かに、指の関節を鳴らして、この悪態にどう報復するか、思案しています。
なにかよい案はないでしょうか?
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by sala729 | 2012-07-24 16:37 | Comments(0)

今、社会とネットの話題は大津の「いじめ問題」に紛糾しています。
子育てを引退した身でも、やはり無関心ではいられなくて、その記事が
目に付くと、つい読み進んだり、クリックしている自分があります。

大切なお子が、自殺という手段で自らの命を絶つ・・そんな現実を突きつけられた
親御さんのお心の内を思うと、その絶望感のせつなさで、こんな私でも
胸が一杯になります。

思えば、私が「現役母」の時代にも、こんな痛ましい事件はありました。
東京では、マットにくるまれて亡くなったお子がいました。
栃木では、何日も連れまわされて、リンチに遭い、助けを求めながら亡くなった
お子もありました。

夏休みが終わると、まるで風物詩かのように、何人かのお子たちが、自らの
命を絶とうとしているニュースが流れます。


今更ながら、なんと悲しく荒漠とした風景でしょう。



今回のことに話を戻すなら、今この事件の加害者少年たちはネットで顔を
晒されているだけでなく、相関図のようなものまで公開されています。

父親や母親。祖父母の伯父叔母まで、それは見事な家系相関図です。
はい。私も見ました。

仕事柄、そういうことを調べることについては、他の方々よりも、多少は
詳しくもあり、手ずるも判っておりますが、それにしても、その私が見ても
こんな短時間にと、半ば感心するほどの早さと、精密さが感じられました。
(正確かどうかは、検証してないので判りません)


このことについて、更にまた是非が問われているようですが、今のような
ネット社会の中で、こんなことの是非を問うても、ある意味それは
仕方のないことではないかという気がします。

そもそも、いじめをした子がいて、いじめられお子がそれに耐え切れずに
命を絶ったという事実があるから、その後の経緯の中で、こういう
プライバシーの暴露のようなことが起こったのです。

いじめた子がいなければ、いじめた事実を、大人の誰かがなんとかして
いれば、「ネットで晒された」などという二次被害は起きなかったのです。


私は自分を普通の母親とは思っていませんが、世の中の多くの父や母は
こんな事件が起こって、わが子のことをまず心配します。
そして、そのあとでこういうことの発端となった子の顔写真や、家族の背景が
見れるとなったら、誰でも見たいはずです。

自分のところと同じなのか。違うのか。どう違うのか。それとも何処かに
類似性があるのか・・・
そしてそれを確かめて、ホッとしたい・・・これが実感ではないかと思うのです。


個々の守られるべきプライバシー云々は、事件の一番最初の時点で、それが
明確になっていたら、こんなことは起こらなかったはずです。
それを今、そんな形で論調に乗せるのは、枝葉を見て、幹を見ず・・という
やつだと私は思います。


私が母親であった頃、わが子の学校で、教師による体罰事件が公になったことが
ありました。
マスコミにも載りました。私は当時PTA役員でもありましたので、全校保護者
説明会にも出席しました。

多くの、父や母は、自らの耳や身で事の全容を知りたいのです。
中学生ぐらいになると、多くのお子は学校のことを家庭では話さなくなります。
(うちはうるさいくらい話てましたが・・笑)
ですから、何か事件があれば、こういう席で、きちんと事の次第をお聞きしたい
のです。

なにしろ、尊敬するしないは別にしても、学校での子供は、先生方の手の内に
あると私は思っていました。
そう、早く言えば「人質」と思っていました。

わが子が自分の知らないところで、どういう扱いを受けているか、どんな境遇に
いるのか・・・それを知りたいと思うのは親として当然のことと、私は思って
いましたので、いろいろ学校にも尋ねましたし、親としての持論も展開させて
いただきました。


家人はそんな話を聞くと「Aちゃんは、今なら、モンスターペアレンツと、
呼ばれていたかもね。」と、笑いますが、結構です。

モンスターと呼ばれようが、悪魔と後ろ指さされようが、私は親として
私の知らない場所での、自分の子の身の安全と、行動は確認しておきたい。


子供がまだ小学生や中学生の頃、よく言っていました。

「あなたが、もしも、いじめにあっているのなら、言って欲しい。いつでも転校
させるし、残ったいじめ子を、私は許さない。あなただけを転校させて、
はい、おしまい。なんて生ぬるいことはしない。

 もしも、あなたがそのいじめで死んだりしたら、私は一生その子に付き纏って
仕事も結婚も、もちろん社会生活ができないようにしてやる。いつもそばに
出没して、恋人に友人にその子がしたことを全部暴露してあげる。私が死ぬか
相手が死ぬまでそうしてあげる。警察なんて怖くない。子供に死なれた親に
怖いものなんてなにもない。」

日頃、ぶっとんだ親とは思っていたらしですが、この言葉を聞いて、娘は
うちの親なら本気でやるかもしれないと、怖くなったと後に言っておりました。
しかも、そのせいで、一時期それに近いことがあったけれど、却って相談
できなかったと、今にして思えば、逆効果なことを言っていたのかと
自虐的に笑うしかないのですが、その頃の私は親の「本気度」を見せるつもり
でした。


だからなに?・・と、言うつもりはないのですが、世の親の多くは、私ほど
過激なことは言わないにしても、子供がなによりも大切なことは同じです。


悲しいことに、親にならないと判らないことは多くあります。
子供を思う親心の広さと深さもそうです。

いまの、いじめ子にそれを思えと言うのは、無理千万でも、せめて
子らを教育する先生方には、そういう親の真摯な「親心」は、判って欲しい
ですね。

娘も親になり、いつかその子も学校に上がります。
もしも、不幸にもそんな状況になったとしたら、娘はどうするでしょう?
私は娘の親ではありますが、その子の親ではありません。
親である娘の行動を見ていることしか出来ませんし、そうでなければ
ならないと自制しています。

でも、その自制の箍が外れたら、私はどこに向かって駆け出していくのでしょう。

娘よ。。願わくば、母に穏やかな老いの時間を・・・と、願いながら
こんなことを考えている自分にも、いまの時代にも、ひそやかな嫌悪を
感じている私です。
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by sala729 | 2012-07-13 14:34 | Comments(0)

暦は7月に入りましたが、まさしく「梅雨」真っ只中で、近日は大雨の
被害や警報が絶えないようです。

例年のこととはいえ、四季のある日本という美しい響きの裏側には、こうした
過酷な現実があると思い知らされるのはこんな時でしょうか。

そして端境期であるせいか、訃報もよく目に付くと感じるのもこの頃です。

もっとも、自分が年を重ねてきた分、友人・知人の数も当然増えてきて、
同じように有名人や芸能人さんたちのことも、今の若い人たちよりは断然沢山
知っています。
(もちろん今最盛のAKBのメンバーの名前だの、ジャニーズの新グループ
だのと言われれば、名前の一人も浮かんできませんが、総数で言えば生きている
時間の長い分、絶対的に私の方が有利です。笑)


そんな時に耳にしたのが、ザ・ピーナッツの伊藤ユミさんの訃報でした。

私が子供時代に彼女らは大スターで、毎週日曜日、伝説の「しゃぼん玉
ホリデー」で、歌ったり、死にかけのお父さん役のハナ肇さんを相手に
「おとっつぁん」なんて、今どきの子供たちが聞いたら、どこの国の言葉?
なんて言葉を駆使してミニコントらしきものを演じていました。

それから、映画「モスラ」で、妖精を演じてモスラを呼ぶ歌を歌っている姿は
子供だった私達から見ても、可愛らしく愛らしいものでした。


そうした彼女たちが引退し、それっきり表舞台には一切出ず、次に話題になった
のは、沢田研二さんとの結婚のニュースでした。
そして出産。離婚と少しづつ消息といえば、それらしいものを漏れ聞きながら
先日の訃報だったのですが、このニュースは全国的に流れました。

NHKも流していました。モスラやシャボン玉ホリデーの、シーンも幾度となく
流されました。必ず「ザ・ピーナッツの伊藤エミさん、71才が亡くなりました。」
と、ご丁寧に氏名・年齢を附帯して・・。

名前はともかく、すでに引退して長い時間がすぎ、それまで自らの意志で
全く表舞台には出ないという姿勢を貫いてきた人に、年齢までそう何度も
繰り返し喚起することは必要でしようか?

引退の理由を詳しくは知りませんが、今の自分たちのイメージをこのまま
売り続けることが難しくなってきたのか、嫌になってきたのか・・・それが
すべてではないにしても、理由の一端であったことは確かだと思います。


そういう美意識で一線を退いた方の、年月を経ての消息に「年齢」は必要で
しょうか?
彼女らはそういう現実を晒すことを厭ったからこそ、引退を決めたのでは
ないでしょうか?

彼女らに、若き頃の自分を重ねて、「いい時代だった」と思い返すことに
年齢は必要ですか?
それはそれで、ほんわりと温かい思い出に浸ることができるのは、どこかに
不可思議で、はっきりしたものがないからこそ、できることではないかと
私は思っています。


「年は関係ないでしょ。」と、そういう方こそ、本当は年を無視できない。
今まで自分が生きてきた統計の中で、私の脳はそう訴えています(笑)

「うっそぉ。若く見える。」そう言われて喜んだり、嬉しかったりするのは
本人だけで、それも生きているうちだけです(笑)


よくご葬儀でも、生前写真を飾っていますが、芸能人でもない限り殆どの
人たちは、亡くなった時代に近い厳かで真面目なものを使っていますよね。

あれはなぜ、若く華やかで美しかった時代のものではダメなんでしょう?

人生の最期に、自分が一番美しかった時代であったの、輝いていた時代で
あったりした頃の写真でお別れしたいと望むことは、慎むべきなのでしょうか?


私事ではありますが、私は自分の葬儀(家族だけで見送って欲しいと希望
していますが)には、この写真ともう10年以上前に決めています。
夫が亡くなった時に、私のときの写真を決めました。大きく引き伸ばして
そのまま祭壇に飾れる大きさにしています。
もちろん夫と一緒に映っていますので、考えようによっては夫は二度葬儀の
祭壇に飾られることになります。

しかし、今はそれと家人と一緒のものも飾って欲しいと思っていますので
そろそろそれも用意しておこうかな・・なんて思っています。

自分にとって時間の流れは必要でしたし、それに助けられたことは何度も
ありました。
でも、自分が終わりのときに、誰彼構わず「OO才。OO才」と、連呼されたくは
ありません。



特に、華やかな世界で夢やあこがれを私達に振りまいてくれた彼女たちの、
最期の矜持を、せめてどこかのマスコミは守ってあげられなかったかと
へそ曲りの私は思います。


私のようにモスラを呼び続けた妖精のイメージのままで、そして家人の中では
「恋のフーガ」のままで、彼女は逝ってしまいました。


今の時代は、どうでもいいことばかりを執拗に開け広げ、知らないといけない
ことを権力側に擦り寄っていく報道機関ばかりが目に付いて、私たちの
目は知らず知らずに、白内障に罹っているのかも・・・。
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by sala729 | 2012-07-05 12:53 | Comments(0)